雨の日、塩は眠る
母の塩作りを描くために早起きしたヒナ。雨で白紙になった一日は、使われなくなった塩槽のほとりで別の色を得る。
ヒナは母の仕事を描くつもりで、昨日から木の板を磨いていた。白い塩、赤い火、青い海。炭しか持っていないのに、頭の中の絵は色でいっぱいだった。朝、雨戸を開けると、雨が横から入ってきた。母は釜へ行く上着を脱ぎ、雨水甕の蓋を見に外へ出た。
「今日は塩を作らないの?」「槽の海水が薄くなるからね」。母は屋根の樋の葉を取り、叔父と一緒に甕の覆いを直した。ヒナは戸口で板を抱えて待った。塩の山も、火の粉もない。ただ桶が増え、濡れた縄が増え、大人の肩が黒く濡れていく。描きたかった日に限って、何も起きない。
昼前、母は釜小屋の棚を直しに行くと言った。ヒナもついていったが、釜は口を閉じ、残りの塩は乾いた奥へしまわれていた。叔父は古い籠を編み直し、母は欠けた柄を削った。ヒナが板へ大きな雨粒ばかり描いていると、どこかで、ぽこん、と間の抜けた音がした。
母の手が止まった。もう一度、ぽこん。ヒナは笑いかけ、口を押さえた。「おなかじゃないよ」と母が言った。二人は庇から外を見た。昔の塩槽の一つに水がたまり、倒れたヨシの葉から大粒のしずくが落ちている。水際の伏せた空き鉢へ当たるたび、音がした。
雨が弱くなってから、母と固い縁を歩いた。鉢は誰かが苗を分けるときに使ったものらしい。持ち帰ろうと近づくと、すぐ脇の草が動いた。小さなもぐの丸い背が、葉の下へ引っ込む。ヒナは足を止めた。槽には人の作る白い塩の代わりに、緑の草と、小さな波紋と、今見えなくなった背中があった。
「ここでも、母さんは塩を作った?」。母は縁にしゃがみ、自分が子どものころにはもう使っていなかったと言った。祖父が取水口の埋まった話をしてくれたこと。移ったあとの槽で、はじめてカエルを見たこと。ヒナは母にも、仕事をまだ知らない子どもの日があったのを、うまく想像できなかった。
帰ってから、板を半分ずつに分けた。片側には、晴れの日の塩を思い出して描いた。もう片側には雨の槽と、草の裏に丸い背を描いた。母の手も描いた。釜を混ぜる手ではなく、外れかけた樋を押さえる手にした。指は五本あるのに、何度描いても一つだけ長くなった。
夕方、叔父が絵を見て、塩は今日はどこだと聞いた。ヒナは小屋の奥を指した。「眠ってる」。母が笑い、乾いた棚から夕食の塩をつまんだ。魚の皿から湯気が上がった。外では、ぽこん、という音がまだ続いている。ヒナは板の隅に、小さい丸をもう一つ描き足した。
